◆バブル期モテ車の最高峰に位置した
憧れのスポーツカー『ソアラ』
1980年代は熱い時代でした。2度も発生したオイルショックや、排ガス規制によりクルマに厳しい1970年代が明け、クルマが再び魅力を増していく年代でした。
トヨタ『ソアラ』がデビューした1981年。筆者は18歳。まわりの友達たちは自動車の運転免許を取り始めてクルマを手に入れていきます。当時の免許取り立ての小僧が買えるクルマなどはたかが知れていて、タイヤが4つ付いて、ちゃんとエンジンが動けばいいような時代でした。エアコンがついているクルマは贅沢品、ウインドウは手巻きだし、パワステなんてついていないクルマが普通の時代です。
クルマを手に入れることに四苦八苦している自分達を横目に、新車に乗る先輩や同級生がいました。彼らはだいたい、家業を継ぐとか親の希望する就職先に収まっていたのです。自分勝手に生きていた私ですが、彼らが手に入れた新車はさすがにうらやましい限りでした。そんな、彼らでも手に入れられなかったのがソアラだったのです。
ソアラは特別な存在だったのです。たとえば『セリカ』が欲しい…、と言って「セリカXX」を買ってしまうことはできます。セリカとセリカXXの違いなんてわかりません。しかし、「ソアラが欲しい」は「『クラウン』が欲しい」と同意語だったのです。クルマのことをそんなに詳しくない人でも、「ソアラは凄いらしい。ツインカム6気筒ってトヨタ『2000GT』やレーシングカーみたいなエンジンを積んで、メーターは戦闘機とかロケットみたいらしいぞ。それでいて内装は豪華で高級ホテルのソファみたいらしいぞ」という感じでした。
この時代、国産車はどこに向かっていいのかわからない時代でした。もちろん日本で一般的に使われる大衆車や商用車、そして日本的なスポーツカーはきちんとしたベクトルを持っていたのですが、クルマ好きの間では欧州車のしっかりとした走りを評価する傾向はありましたが、一般的な消費者は重厚長大なアメリカ車の贅沢さ、高級さを求める時代でもありました。ソアラはそんな時代に生まれた、日本車のサイズのなかに、欧州の走りとアメリカのインテリアを押し込んだクルマとして誕生したのです。
ソアラは装備の充実さでも注目されました。年式やグレードによっても異なりますが、オートエアコン、クルーズコントロール、電子制御で減衰力を調整するTEMS、ブラウン管を使ったモニターシステムのエレクトロマルチビジョンなどなど、考えられるだけの装備を満載した2ドアモデルだったのです。トヨタにはセンチュリーが存在していたので、4ドアに豪華装備は当たり前でした。しかし、パーソナルな2ドアに装備を満載したことが大きなトピックスだったのです。
1986年、ソアラは2代目に移行します。そしてほぼ同時に時代はバブル景気に突入します。2代目ソアラは1代目のヒットを受けて、デザインは大きく変えることなくモデルチェンジを行いました。先代ではストラット&セミトレーリングアームだったサスペンションを4輪ダブルウィッシュボーンに変更。もちろんTEMSも採用されました。さらにエアサスモデルも設定され、高級車の極みに近づいて行きます。もっともパワフルなエンジンは当時の日本車としては最高レベルの230馬力を達成しました。
バブルの到来とともにソアラは大ヒットとなるのですが、じつはクルマの楽しみ方に多様化の兆しが現れます。ひとつはソアラのような国産の高級車指向です。トヨタで言えばいわばソアラが頂点に位置し、『マークII』、『チェイサー』、『クレスタ』の3兄弟、『カリーナED』などが人気を博します。
一方でBMW『3シリーズ』が“”六本木のカローラ”、メルセデスベンツ『190』シリーズが“赤坂のサニー”と呼ばれるなど、輸入車が一気に身近な存在となってきます。また、クルマをチューニングして最高速やストリートゼロヨンに挑む人達や、峠でドリフトを行う人達など、自動車趣味の方向性が多様化した時代でもありました。
当然ソアラもチューニング対象とはなりました。ソアラは初代をベースにトラストがチューニングしたモデルが、国産チューニングカーとして初の300km/hオーバーを記録したこともあり、人気の的になったのは当然。走り屋と言われるチューニングカー好きの若者から、暴走族、一般ピープルまでソアラは人気のモデルとしてその地位を確立します。
2代目ソアラは1991年まで製造され、3代目に移行します。そして1991年にはバブルも終了します。2代目ソアラはまさにバブルとともに生まれ、バブルの終了とともに次世代にその使命を受け継いだクルマだったのです。3代目ソアラはレクサス『SC』として輸出も行われるため、初代や2代目とはかなり方向性の違うクルマになりました。バブル期のバブルらしいクルマを味わうなら、何といっても2代目ソアラなのです。