4人の開発者が語ったホンダ『S2000』誕生ストーリー…ついたての裏からギャングカー | CAR CARE PLUS

4人の開発者が語ったホンダ『S2000』誕生ストーリー…ついたての裏からギャングカー

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三樹書房/グランプリ出版は4月8日に、モビリティリゾートもてぎホンダコレクションホールにおいて、「ホンダS2000開発者による講演会~ファンの集い~」を開催。当時のエンジニア4名から、ホンダ『S2000』の開発エピソードなどが語られた。

この催しは三樹書房から昨年刊行された書籍、『ホンダS2000』をもとに、当時のエンジニアが開発ストーリーやエピソードを約100名のファンの前で語ったものである。

当日は、エクステリアデザインを担当した、澤井大輔氏、パワーユニット開発責任者の唐木徹氏、VGS基礎研究責任者の清水康夫氏、そしてS2000車体開発責任者の塚本亮司氏(以上当時の職責)が登壇された。なお、清水氏は都合上VTRでの講演となった。

◆S2000に端を発したフェンダー周りのデザイン

始めに登壇したのはS2000のエクステリアデザインを担当した澤井大輔氏だ。現在は本田技術研究所デザインセンターアドバンスデザイン室の室長である。

S2000の開発当時、入社3年目だった澤井氏は当時を振り返って、「S2000は、僕の出世作」と話すほど思い入れが強いクルマのようだ。S2000のプロジェクトに関わったこともあり、「オースティンヒーレーを買ってスポーツカーのある生活を体験しながら開発していた」という。

S2000の開発は1995年の東京モーターショーに出展された『SSM』コンセプトにまで遡る。そのスケッチを見せながら、「コピー用紙にボールペンとマジックペンで描いたもので、キーイメージ、キーモチーフが見つかった時のスケッチだ」と紹介。そのキーとなるものはS2000にも受け継がれている。それは、「フロントからリアに抜ける日本刀のようなライン(ヘッドライト内側からリアに抜けていくライン)」と澤井氏は紹介。

同時にホンダにFR車はほぼないことから、「フロントが長いというモチーフをどうやったら良いモチーフとして見せられるか考えた」という。さらに、通常のスケッチはフロントクオーターやリアクオーターから描くものが多いが、あえて正面上方からのスケッチにした。その理由は、「スポーツカーは低いクルマなので、上から見下ろすことがあるだろう。そこを考えたもの」とのことだった。

そもそも澤井氏は、「スポーツカーに興味があったわけではなかったが、当時所属していたスタジオで好きに提案していいといわれた時に描いたのが『ギャングカー』と呼ぶスケッチだった。これが(S2000の)前身だと思っている」という。この試みは、ホンダ流にいう“ついたて裏”プロジェクトと呼ばれるもので、新しい価値の創出のトライアルと位置付けられ、金曜日の午後や、「週末などの休みの日に会社に行って描いていた。若かったので練習もしたいという思いもあり描いたのがこのギャングカー。これをプレゼンしたら、スポーツカーを描いてみろといわれたのがきっかけだった」と述べ、「このスケッチではすでにBピラー周りが思いきりカーブを描いているのが分かる」と説明した。

このモチーフはその後、1998年にアメリカで出た『オデッセイ』や2005年の『エアウェイブ』などにも受け継がれており、「一番大事なのはプロポーションだが、フェンダーに特徴を持たせるとクルマの特徴ができるということが分かった」と述べていた。

◆タイプRの原点にもなったエンジン

続いてはS2000のパワーユニットの開発責任者を務めた唐木徹氏だ。S2000のほかに『NSX』なども担当するなど、10年程スポーツ系のクルマに携わってきた。

S2000に搭載されることになる新エンジンの先行開発には大きく3つの目的があった。まず、エンジンの競争力の低下があった。「それまでは軽量で高出力なオールアルミエンジンというのはホンダのお家芸だった。しかし他社も追いついてきたので、長期にわたる競争力を盤石化するためにエンジンを刷新する必要があった」。

もうひとつはエンジンラインナップの整理だ。「それまではクルマごとや製作所ごとにエンジンがあるような状況で、2リッタークラスでもエンジンが乱立していた。グローバルでの経営効率化のために骨格を統合することを目指した」。

3つ目は業界標準となるエンジンの回転方向への転換だ。「多くのメーカーはクランクプーリーから見て時計回りが標準であったが、トヨタとホンダは逆だった。これを標準にすることで、他社に売ることやアウトソース、例えばホンダにないトランスミッションの購入などに活用しやすくなることが狙い」と説明し、開発プロジェクト、“BVD”がスタートした。

このBVDプロジェクトはやがてFRプラットフォーム用のBWWプロジェクトに向かいS2000用のF20型エンジンが誕生していく。またこのプロジェクトから派生しVETCエンジンやタイプRに搭載されるK20型も誕生していくなどの系譜も語られた。

さて、BWWプロジェクトを経てS2000に搭載されたF20C型エンジンが誕生するのだが、この量産にあたってその狙いは、「かつてない高出力と環境対応の両立を図り、“創50”を機に、ホンダのメッセージとして全世界に発信する」というものだった。この創50とは、ホンダ創立50周年記念の意味で、「誰も真似のできないような、世界があっと驚くようなエンジンを作るという大きな主題が降りてきた」と唐木氏は語る。

そしてそのコンセプトは、「2リットル自然吸気エンジン世界一の高出力、アクセルに俊敏に反応するレスポンス、全世界LEV対応による高出力と環境対応を両立」とされ、「スポーツカーエンジンとしてビハインドアクスルレイアウト(フロントミッドシップ)を実現するコンパクトレイアウトと軽量化。低排出ガスでありながら出力を高めて軽量コンパクトにするという相反する内容を高い次元で両立させろということ」と述べた。

当時の排出ガス規制によって、日本でのスポーツカーはことごとくカタログ落ちをしていった。その中で、「非常に高い志だったと思うが、どうすればいいのか悩みながらこれを書かされた」と苦笑交じりに説明した。

そこから様々な新技術を投入して高回転・高出力、環境性能、軽量コンパクト、ハイレスポンスを成立させていく。その中には二輪で実績のあった低圧損の排気系技術も投入し、250馬力を実現させた。

ここで唐木氏は、量産化されたのち、「エンジン屋としては嬉しい話があった」という。それは、インターナショナルエンジンオブジイヤーアワードをS2000が1.8から2リットルクラスで5年連続このカテゴリーベストに選ばれたことだ。同時に「ベストエコノミー、ワンリッターサブというカテゴリーで『インサイト』のIMAのパワーユニットも同時に受賞。創立50周年を機に世界があっと驚くようなエンジンを作ることが狙いだったので、両エンジンが揃って世界に認められたのはやっていて良かったと思っている」と嬉しそうに話していた。

その後、S2000はF22C型へエンジンが変わり、その名の通り2.2リッターエンジンとなる。それは北米市場がメインであることや競合車が3リットルクラスのスポーツカーであることから、より優位性を持たせることが目的だった。外誌の評価ではそれら競合車の中でトップの評価を獲得。特にシフトフィールやハンドリング、ファントゥドライブでは満点で、まさに、「S2000のコンセプトそのものが正しく評価された」と唐木氏。同時に価格についてもリーズナブルとされた。一方3点というすごく低い点数があった。「これは装備だった」とコメントすると会場からは笑いがこぼれ、皆一様に感じていることが伺われた。そこで排気量をアップすることでさらに優位なポジションを獲得しようとしたわけだ。

最後に唐木氏は、技術者としてのプライドとして、「エンジンの指標としてリッター出力というのがある。S2000は2009年の生産終了まで自然吸気エンジンでリッター出力125.2というトップの数値は譲らなかった。生産終了の翌年にフェラーリ『458イタリア』が126.7でトップになったが、S2000はこの価格帯で、世界のスポーツカーファンに手の届く価格で世界一のエンジンを提供し続けることができた」。ホンダの社是に、「私たちは地球的視野に立ち、世界中の顧客満足のために、質の高い商品を適正な価格で供給する事に全力尽くすというのがある。高くて良いのは当たり前で、適正な価格で良い物をお届けすることなので、S2000は社是を体現した商品なのではないかと思っている」と結んだ。

◆ゼロ戦のように機敏に

VGS(可変ギヤ比ステアリング装置)基礎研究責任者だった清水康夫氏は現在東京電機大学で教鞭をとっており、今回はVTRでの参加だ。その講演内容は数式などに基づき、エンジニアならではの視点で語られた。

実際に数式や解析などの図では難しい内容だが、その根底に流れるものは、同郷で高校の先輩にあたり、2013年のジブリアニメ、『風立ちぬ』の主人公、堀越二郎氏と氏が設計したゼロ戦にあるようだ。この高い運動性をクルマでも達成させたいという思いが強くあったと明かしていた。

机上から導かれた数式をもとに様々な実験やシミュレーションを繰り返し、最終的には実車に搭載してのテストが繰り返された。そこではVGSの有無での比較映像が流され、その差は一目瞭然。参加者も驚きだったようだ。特にスピンモードに入りかける際のステアリング修正がはるかにVGSの方が優位なのだ。これは会場にいる多くの参加者たちも多いに参考になったようで、暫くざわつきが収まらない程だった。

◆欧州を駆けまわって仕上げていった

最後は車体開発責任者を担当した塚本亮司氏が登壇。塚本氏はS2000が量産モデル開発に移行してどういう考え方でこういうクルマになったのかを語る。

1995年の東京モーターショーに出展されたSSMというスポーツスタディモデルがきっかけとなり新しいスポーツカーを作ろうという機運が高まった。そこから量産モデル開発指示が出るのだが、その開発目的は、「創50のタイミングに合わせた記念モデルとして、新しく走る楽しさが発見でき、ホンダのこだわりを示せるクルマ。そして2000年だったので、21世紀に向けてホンダスポーツイメージを世界で高められるクルマ。そしてスポーツカーファンに手を届く価格で提供できるクルマを作りなさい」というものだった。

そこから量産モデルチームとして机上で指示書に見合うクルマどういうものかを検討。その際には、「まだSSMをそのまま量産モデルにするという考えはなかった」という。

そこで、塚本氏達は、「ホンダは机上の空論では済まされない。自ら体験しろ、つまり三現主義である。これは現場、現物、現実主義に則り、とにかく現実のものにヒントがあるとしていろんなクルマを箱根に持って行って、何が21世紀の新しいホンダスポーツとしてふさわしいのかを探った」。そこで生まれたのがグランドコンセプトが、「緑のワインディングを気持ち良く、でも本籍はサーキット」だった。「しっかりしたスポーツカーで、でも常用域でもすごく楽しめるクルマがコンセプトとしてふさわしいのではないか」というものだった。

そこからS2000の立ち位置、ポジショニングを考察。様々な競合車を俯瞰しながら、「ダイナミクスを極めながら時代に見合うものを目指すべきなんじゃないか」という結論を導き出した。そしてその性能は、「全域全感覚ドライビングプレジャー。どのゾーンにおいても非常に運転することの楽しみが感じられるようなクルマを目指しながらも、タイプRのようなトップエンドの性能だけではなく、常用ゾーンでもすごく楽しいクルマにすべき」とされた。

特にダイナミクス性能では、「走る、曲がる、止まるといった基本原則とともに、レスポンス、応答性を非常に重視した。ただし、単に応答性をよくするのではなく、いかにドライバーが気持ちよく感じられるようなレスポンス」を求めていったのだ。

そこでキーとなったのがフロントビハインドアクスルレイアウト(フロントミッドシップ)だった。「エンジンをコンパクトにかつ高出力に設計することがテーマになっているので、それが実現しないと、このレイアウトは成立しない。そこでトランスミッションが室内側にちょっと食い込んでいるのはどうしてもこういう形になったということをご理解いたきたい」と足元のスペースについて、参加したファンやユーザーにコメントしていた。

また、「五感で感じること、風やサウンド、チェンジフィールにもこだわった」と述べ、こういったことを踏まえて役員会に諮り一先ずスタートはした。

しかし、「これが本当に良いのかどうかは、スポーツカーの開発のタイミングはそうそうあるわけではないのでわからない。おまけに創50のタイミングでホンダの21世紀の方向性を示すものとなっているので、時間をかけてこのコンセプトが正しいかどうか三現主義に従って自分たちで検証してこい」と命が下った。

そこでスポーツカーの本場はヨーロッパと定め、そこを舞台とした。また、道路環境だけでなく様々に変わる天候も検証条件とされた。まずNSXの開発でなじみのあったドイツのニュルブルクリンクを起点にアウトバーンを使い、アルプスを抜けてスイスから北イタリアに入る。ここは狭い山道がありいかに機敏に走ることができるかを体験。同時に天候も、「ヨーロッパは晴れの日が少なく、急に雨が降ったり、場合によっては雪が降ったりしするので、そういった環境でいかに適合するかを探る意味もあった」。そこから北上してイギリスへも行き、ここは、「かなり日本に近く、ワインディングが非常に楽しく走れるシチュエーションが多かった」と塚本氏。

そういった中で、欧州の著名なジャーナリストとディスカッションするなどでいかにホンダらしいクルマを作るかを探っていった。そこで得たのは、「スポーツカーは走る曲がる止まるの基本性能はもちろん盤石でないとダメだが、その中にはクルマと一体になれる運転感覚がないとドライビングプレジャーは得られない」というものだった。また、「長く愛されるためには刺激がないとやはりダメ。そして唯一無二の存在、独自性がホンダらしさだ」ということにも気づいたという。こういったことを踏まえ量産開発がスタートしていった。

その後も様々なテストを繰り返し、空力やスタビリティの関係でリア周りのデザインやジオメトリーなども見直された。こういったことも欧州でのテストで分かったことだった。

実は役員会では大きな事件もあった。それは、世界最高出力エンジンを目指すために、「切り良く1万回転250馬力というもので、240馬力からのパワーアップだった。かなり大変なハードルになっていった」と塚本氏は振り返る。

そういった過程を経てエンジンも開発完了するまでに手こずりながらもようやく「無事に創50モデルとして誕生した」と生みの苦しみと楽しみ述べていた。

《内田俊一》

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