『ランサーエボリューション』の話をするには、時間を巻き戻して話をしなければならないでしょう。三菱は高度成長期からモータースポーツに果敢に挑んだメーカーで、1964年の第2回日本グランプリでは、『コルト1000』がクラス1~3位を独占しています。
三菱のモータースポーツ活動は国内にとどまりません。1967年に「コルト1000F」でオーストラリアのサザンクロスラリーに参戦したのを皮切りに、海外ラリーに積極的に参加していきます。1971年にはサザンクロスラリーで総合優勝。WRC(世界ラリー選手権)が始まった1973年にはプライベーターのジョギンダ・シンが『ギャラン』でサファリラリーに参戦します。1974年もサファリラリーに参戦することを決めていた三菱ですが、突如勃発した第一次オイルショックによりその計画は中止せざるを得ない状況となっていました。
しかし、ドライバーに決まっていたジョギンダ・シンは自らランサーを購入。三菱はその熱意にパーツ供給を行います。そしてジョギンダは見事にサファリラリーで優勝を遂げ、その偉業が認められ三菱はサファリラリーの参戦を続けることになります。ジョギンダ・シンは1976年にもサファリラリーで優勝を果たします。
そのころの日本はといえば、スーパーカーブームの真っ最中。中学生だった筆者は、ハーフサイズのフィルムカメラを持って、毎日のように自転車に乗って、環状八号線沿いの輸入車販売店を訪れていました。そして、テレビや新聞の折り込みで新車のディーラー発表会があると知ると、ディーラーを訪れてはカタログと記念品をもらうのが何とも楽しい時でした。
1976年の5月に三菱は3代目ギャランとなる「ギャランシグマ」を発表しますが、そのディーラー発表会ではサファリを制したランサーのポスターをもらい、すごくうれしかった思い出があります。そうして、少年の心にはランサーはラリーのクルマという刷り込みが行われました。
2代目ランサーは1979年の発表で、車名が「ランサーEX」となります。ランサーEXにはターボモデル(愛称はランタボ)が設定されます。スーパーカー少年は高校生になっていてオートバイに乗っていましたが、だんだんに4輪車が気になる年頃です。そうこうしているうちに友人が「ランサーEXターボ」を購入、ランサーは一気に身近な存在となりました。
筆者は1987年にクルマメディアの世界に入りますが、このときのランサーは3代目で、ターボエンジンも存在せず、おとなしいファミリーカーという存在でした。それが一変したのが4代目に設定された「エボリューション」というモデル、そうランタボがランエボになって戻ってきたのです。
初代のランサーエボリューションは1992年に登場します。ランサーがおとなしい時代、三菱のモータースポーツを担ってきたのは『ギャランVR-4』だったのですが、そのVR-4の2リットルエンジン(4G63)と4WDのパワートレインを4代目ランサーに移植し、エボリューションの名が示すとおり進化したモデルとしたのがランサーエボリューションでした。初代ランサーエボリューションのエンジンは250馬力でした。ランサーエボリューションはWRCへの参戦を念頭にホモロゲションを取るために2500台の限定生産を予定していましたが、予定台数をあっという間に販売。市場の要望もあって最終的には7000台あまりが生産、販売されます。
ランサーエボリューションのすごいところは、その後があることです。4代目ランサーをベースとしたランサーエボリューションは、94年に260馬力となってエボリューションllが登場、95年に270馬力のエボリューションlllが登場します。96年にはベースモデルが5代目がフルモデルチェンジ、ベースモデルを変更したエボリューションlVが登場します。この時点でエンジンは280馬力に到達します。驚くべきはその価格で、装備が充実したGSRで298万8000円、モータースポーツベースとも言えるRSなら249万8000円です。当時の280馬力という出力は、日本車の自主規制下では最高出力です。1990年に登場した同じ三菱の『GTO』はツインターボ仕様が280馬力で価格は約400万円でしたから、150万円も安い価格で280馬力エンジンを搭載したモデルを入手できたことにあります。
その後、ランサーエボリューションは進化を続け、自主規制撤廃後となる2015年に登場したファイナルエディションでは313馬力までエンジン出力をアップします。
ファイナルエディションをすべて売った時点でこれにて終了となるのでしょうか? 私はそうは思いません。クルマは市場が求めれば、法規をクリアして登場するという歴史を繰り返してきました。今後もその関係は変わらず、いつの時代でも市場の求めに応じたクルマが登場します。大切なのは、市場が求めることなのです。